世界一短い国家・「君が代」に2番3番がある?
日本の国歌・君が代が作られたのは明治時代ですが、正式に国歌として法で定められたのは「国旗及び国歌に関する法律」が制定された1999年(平成11年)です。
曲の長さは約45秒で、世界一短い国家として知られています。
君が代は
千代に八千代に
さざれ石の
いわおとなりて
苔のむすまで
— 君が代、日本の国歌
法律で認められてるのは上記の歌詞のみですが、これに続く非公式の歌詞が存在するのをご存知でしょうか?
現在はほとんど知られていませんが、君が代が作られたばかりの時代には2番や3番も歌われており、小学校の教科書に歌詞が掲載されていました。
君が代・2番3番の作者と歌詞
明治23年(1980年)に発行された「生徒用唱歌」には「三大祝節頌歌(さんだいしゅくせつしょうか)」として君が代が収録されています。この本の君が代は現在知られている歌詞が1番、続いて2番と3番の歌詞が存在します。
生徒用唱歌に掲載された君が代の2番・3番の歌詞とその意味、作者についてご紹介します。
君が代に二番、三番の歌詞があるのを御存知でしょうか。
— 六衛府 (@yukin_done) June 13, 2018
明治期に源頼政、藤原俊成の和歌を由来として作られたようです。
2. 君が代は千尋の底の細石の
鵜のゐる磯と あらはるるまで
3. 君が代は千代ともささじ天の戸や
いづる月日の かぎりなければ
※生徒用唱歌 明治23年 国立国会図書館 蔵 pic.twitter.com/EEhhMFKHS0
君が代・2番の作者と歌詞
君が代の2番の歌詞の作者、源頼政は平安時代末期の武将であり、歌人としても名高い人物です。出典は「今撰和歌集」の「源頼政の歌」だとされています。
【歌詞】
君が代は
千尋(ちひろ)の底の
さざれ石の
鵜のゐる磯と
あらはるるまで
【現代語訳】
我が君の御代がいつまでも長く続きますように。深い海の底の小石が波に打たれて集まり、鵜のいる浅瀬に磯となり現れるまで。
「さざれ石」は小さな石のことであり、「千尋」は非常に長いこと、極めて深いこと、という意味を持ちます。磯(海)の場面を歌っているので、「千尋の底のさざれ石」は深い海の底の小石を指します。
途方もない長い年月を海底の小石が磯を形成することに例え、君の御代が長く続くことを願う歌です。
君が代・3番の作者と歌詞
君が代の3番の歌詞の作者は、平安時代後期から鎌倉時代初期の公家であり、歌人の藤原俊成です。六条天皇が即位した際の大嘗祭で詠んだ和歌で、「新古今和歌集」に収録されています。
【歌詞】
君が代は
千代ともささじ
天の戸や
いづる月日の
かぎりなければ
【現代語訳】
わが君の御代は、千年などと期間を定めて歌に詠むことはできません。天の戸から出る月や太陽と同じように、限りなく存在し続けるのですから。
「天の戸」は空を意味し、「いづる(出づる)月日」と続けることで、空に月や太陽が登ることと、年月が過ぎることの両方を示しています。この歌では君の御代を月や太陽に置き換え、永続性を詠んでいます。
2番3番で終わらない!君が代には4番もあった
明治23年の「生徒用唱歌」以外にも、明治時代の教科書には君が代が掲載されています。その中には前述の歌詞に加え、4番まであるものもありました。
4番の歌詞の作者は、平安時代後期の公家で儒学者の大江匡房であり、出典は「新古今和歌集」に収録されてる和歌です。
【歌詞】
君が代は
久しかるべし
わたらひや
いすゞの川の
流たえせで
【現代語訳】
わが君の御代は末永く続くに違いありません。この伊勢の地にある五十鈴川の流れが絶えないのと同じように。
わたらひ(わたらい)は漢字では「渡会」と書き、伊勢地方の旧名です。「いすゞの川」は伊勢神宮の境内を流れる五十鈴川を指します。五十鈴川の流れが絶えないことと、君の御代が絶えないことを重ねて詠んでいます。
君が代は英国王子の来日で急ぎで用意された
日本の国歌「君が代」は、明治2年(1869年)英国王子・エディンバラ公アルフレッドの来日に伴い急遽作成されました。
王子の来日が決まった際、イギリス公使館護衛隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントンは、儀礼式典での国歌吹奏が必要であると説明しました。
しかし、当時の日本には国歌の概念がなかったため、フェントン自らが作曲すると申し出ます。そして薩摩琵琶歌の「蓬莱山」の一節である「君が代」を歌詞に選定し、フェントンが作曲した初代君が代が誕生しました。
ところが、フェントンの曲はあまり評判がよくなかったため、歌詞はそのままでメロディが改変されることになります。明治13(1880)年、宮内省雅楽課がふたたび曲を作り、フランツ・エッケルトが編曲。現在の君が代が完成しました。
君が代の歌詞は「古今和歌集」と「和漢朗詠集」から
君が代の歌詞の元になったのは、10世紀に編纂された「古今和歌集」に収録されている短歌です。
我が君は 千代にやちよに さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
この歌の始めは「我が君」となっていましたが、人々に歌われるうちに変化します。鎌倉時代初期に刊行された「和漢朗詠集」に収録された際には「君が代」となっており、それ以降は「君が代」と詠まれるようになりました。
君が代は祝賀の歌として、広く一般に広まります。祝賀以外の場面でも多く用いられるようになり、御伽草子や謡曲、浄瑠璃、歌舞伎、琵琶歌などでも歌われました。
戦国時代に作られた薩摩琵琶歌「蓬莱山」の一節にも使われており、明治時代に国歌が作られた際、この歌の中から君が代の歌詞が採用されています。
蓬莱山
目出度やな 君が恵(めぐみ)は 久方の 光閑(のど)けき春の日に
不老門を立ち出でて 四方(よも)の景色を眺むるに 峯の小松に舞鶴棲みて 谷の小川に亀遊ぶ
君が代は 千代に 八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで
命ながらえて 雨(あめ)塊(つちくれ)を破らず 風枝を鳴らさじといへば
また堯舜(ぎょうしゅん)の 御代も斯(か)くあらむ 斯ほどに治まる御代なれば
千草万木 花咲き実り 五穀成熟して 上には金殿楼閣 甍を並べ
下には民の竈を 厚うして 仁義正しき御代の春 蓬莱山とは是かとよ
君が代の千歳の松も 常磐色 かわらぬ御代の例には 天長地久と
国も豊かに治まりて 弓は袋に 剱は箱に蔵め置く 諫鼓(かんこ)苔深うして
鳥もなかなか驚くようぞ なかりける
「君が代」という言葉を用いた和歌は多くあり、前述したように、2番以降の歌詞として歌われた時期がありました。
現在の1番しかない君が代が定着したのは、明治26年(1893)に「祝日大祭日歌詞竝楽譜」が交付されてからです。これ以降、祝日の小学校で現在の君が代が歌われるようになり、広く普及しました。
当時の君が代は「メロディー」も「歌詞」も現在と違った
明治2年(1869年)に初代君が代を作曲したフェントンは、薩摩藩士に軍楽の指導を行ない、日本初の吹奏楽団の設立に貢献したことで知られています。
フェントン作曲の君が代は日本語の歌詞に合わないという不満の声が多く、のちに現在の曲に改変されました。
女神さま
こちらはフェントンが作曲した君が代を歌った動画です!
明治14年(1881年)には、最初の唱歌の教科書である「小学唱歌集 初編」に君が代が掲載されていますが、これは歌詞もメロディー現在のものとは異なります。
1番は当初の歌詞、2番は源頼政の短歌を元にし、後半部分に歌詞が加えられています。後半部分の歌詞は、稲垣千頴の創作であるとされており、英国人のウェップが作曲しました。
【歌詞・1番】
君が代は ちよにやちよに
さゞれいしの 巌となりて
こけのむすまで うごきなく
常磐(ときは)かきはに かぎりもあらじ
【歌詞・2番】
君が代は 千尋(ちひろ)の底の
さゞれいしの 鵜のゐる磯と
あらはるゝまで かぎりなき
みよの栄を ほぎたてまつる
女神さま
動画は「小学唱歌集 初編」に掲載された君が代です。小学校では当初こちらが教えられましたが、あまり普及しませんでした。
日本の国歌「君が代」の背景を知ると面白い
以上、君が代の2番以降の歌詞とその意味や君が代が作られた背景についてご説明しました。
君が代に現在のメロディがつけられ、国歌とされたのは近代になってからです。しかし、歴史を紐解いていくと、1000年以上日本人に愛され、語り継がれていた歌であることが分かります。
君が代の背景を知ることで、この歌の深みを感じるようになり、日本という国をより大切に思うことができるかもしれません。
- 君が代には2番以降の歌詞が存在し、明治期の小学校の教科書に掲載されていた
- 君が代はイギリス王子の来日の際に作られ、最初は現在とは違うメロディーだった
- 君が代の歌詞は古今和歌集や和漢朗詠集で歌われており、1000年以上日本人に受け継がれている