片倉小十郎とは?
片倉小十郎の小十郎は幼名で、元服して景綱を名のりました。フルネームで言えば片倉小十郎景綱(かたくらこじゅうろうかげつな)です。
片倉景重という神職の息子として小十郎は産まれました。父母は二人とも早くに亡くなってしまい、小十郎は20歳ほど年の離れた異父姉の喜多に育てられました。喜多は女性ながら文武に秀でており、そんな姉に片倉小十郎は鍛えられたといいます。
小姓から政宗の傅役へ
伊達領内で大火があった時、15歳になっていた片倉小十郎が火消しの為に尽くした事が認められ、伊達政宗の父である伊達輝宗の小姓に抜擢されました。これには姉の喜多が梵天丸(正宗の幼名)の乳母として迎えられていたことも関係していたでしょう。こうして片倉小十郎は梵天丸の成長を身近に見守ることになりました。
片倉小十郎と伊達政宗の圧倒的な主従関係
このように伊達正宗と片倉小十郎は、政宗が梵天丸と呼ばれていた幼いころからの主従関係にあり、その親密さ、小十郎の忠義ぶりがうかがえるエピソードが数多くあります。
自害覚悟で政宗の目を切り落とす
伊達政宗は片目が無いという事はよく知られていますが、その独眼竜の誕生にも片倉小十郎が関わっています。
政宗が隻眼となったのは5歳の時に天然痘にかかったのが原因です。一命をとりとめる事はできましたが、右目は失明し醜く飛び出てしまいました。
容姿を気にして、戦国武将としては相応しくない引っ込み思案な性格になってしまった梵天丸を見かねて、片倉小十郎はその目を切り落とせと言いました。これは切腹覚悟の進言です。気絶をしかけた政宗の右目を小十郎は抉り出しました。
配下でありながら兄のような小十郎を政宗は重用するようになり、小十郎もますます正宗に忠義を尽くすようになりました。
片倉小十郎がわが子を切ろうとしたとき伊達正宗は?
伊達政宗には愛姫という妻がいましたが、愛姫の乳母が敵に内通しているという疑いがあり、正宗は乳母をを殺してしまいました。そのため一時は夫婦仲が悪くなったとされます。1579年に結婚をして15年間正宗夫婦の間に子供は産まれませんでした。
その間に片倉小十郎景綱は待望の跡継ぎを授かります。しかし妻が妊娠をしたと知った小十郎は「主君より先に子を授かってしまうとはなんたる不忠!子が男ならば殺す」と妻に告げました。
それを止めたのが政宗の手紙でした。「思いとどまってくれ、息子を殺したら私はお前を恨んでしまう」という内容のこの手紙は現在も残っています。
片倉小十郎は伊達政宗を救った?
このような片倉小十郎景綱の強い忠義は、伊達政宗や伊達家の未来を何度も救うことになります。
政宗の身代わりになったことも
二本松城主畠山義継が、伊達政宗の父親である伊達輝宗を拉致するという事件がありました。。二本松城へ逃げ込もうと畠山ですが、知らせを聞いて伊達政宗が駆けつけ、あと少しで、二本松城というところで伊達政宗と兵たちが鉄砲を構えます。
そのとき父の伊達輝宗が「わしもろとも打て」と伊達政宗にいい放ちました。その結果、畠山義継も伊達輝宗もこの時の銃撃で死んでしまいました。
その後人取橋の戦いと呼ばれる東北でも大きい戦(いくさ)が起こります。父の弔い合戦ではやる気持ちの伊達政宗でしたが、冷静に見ていたのが片倉小十郎景綱でした。
伊達軍の兵は七千、対する敵兵は三万という圧倒的優勢で政宗の本陣へ突入しました。そのとき小十郎はとっさに政宗に向かって「小十郎、政宗はここにおるぞ!」と叫びました。自分が政宗のふりをして敵を引き付けようとしたのです。その結果伊達政宗は窮地から脱し、味方の救援もあり、敵を退けたのです。
片倉小十郎が伊達家の未来を救った
豊臣秀吉の小田原城攻めでも、片倉小十郎の伊達政宗への信頼が感じられるエピソードがあります。
当時、伊達家中では豊臣秀吉に就くか、北条に就くかで意見が分かれていました。伊達政宗は北条と組んで関東を支配しようと思っていました。
その時、片倉小十郎は「秀吉は、払っても払ってもまとわりついてくる夏の蠅のようなもので、真っ向から敵対しても無駄だ」と正宗を説得をしたのです。
その進言で秀吉側につくことを決めた正宗ですが、迷っている間に小田原城攻めの参戦に遅れてしまいました。当然秀吉は激怒します。いまや天下人まであと少しとなった豊臣秀吉は、参戦をためらった正宗をそのままにしておきそうもなかったのです。
その時、片倉小十郎はある斬新な提案をしました。正宗に髷を落とし、白装束を着て豊臣秀吉に謝罪するように進言したのです。正宗はその通りにしました。大胆なパフォーマンスが好きな秀吉は、目の前に現れた政宗の首を杖で突き「もう少しでこの首が落ちていたところだ」とにやりと笑い、伊達政宗の遅参を許しました。
伊達政宗は戦中に片倉小十郎のお見舞いへ
秀吉の死後、徳川勢についた伊達政宗は、大坂夏の陣に参戦しました。大阪に向かう途中、正宗は片倉小十郎景綱の城である白石城にお見舞いに行きました。
当時病気で足が思うように動かない片倉小十郎でしたが、長年仕えた主である伊達政宗がお見舞いに来てくれたという事で、わざわざ輿(みこし)に乗って見送りに出たということです。
これが二人の今生の別れとなり、数か月後片倉小十郎は病没しました。伊達政宗の悲しみはとても深く三日三晩誰とも会わずに嘆き悲しんだと伝えられています。
しかし二人の主従関係はこれで終わったわけではありません。
片倉小十郎の嫡男は政宗の小姓に!
片倉小十郎景綱の息子である重長(しげなが)は伊達政宗の小姓となります。重長は颯爽たる美少年だったとされます。伊達政宗と重永の関係は父の景綱のそれとは少し違った、でもとても深いものでした。
1614年の大坂夏の陣では、父の幼名を受け継いだ重長が片倉小十郎重永として大活躍します。
血気盛んな重長は伊達軍の先陣を切りたいと伊達政宗に願い出しました。政宗は重長の手を取って「お前意外を先峰にはしない」と言ったのです。その際、伊達政宗は重長の頬に唇をつけてキスをしたとか。
大坂夏の陣で重長は一軍の大将であるにも関わらず直接敵と刃を交える戦いぶりを示しました。重長は称賛を浴びる一方で、大将として敵と直接戦うとは…と苦い顔をしたのが死の床にぁった父の景綱でした。
このような勇猛なエピソードから、片倉重長は「鬼の小十郎」と呼ばれました。有名なこの異名は、実は景綱ではなく息子の重長のものなのです。
片倉小十郎の子孫
片倉小十郎景綱の子孫はどうなったのでしょう。
5人の子供に恵まれ、嫡男の重長は伊達政宗の小姓になり、小十郎を継ぎました。その重長ですが、妻になんと大坂夏の陣で敵方だった真田幸村の三女である阿梅がいます。戦に敗れた真田幸村は、重長に子女の保護を頼み、重永は徳川に見つからないよう匿いました。
重長と阿梅の間には男子が産まれなかったため、養子をとります。その後、片倉家は明治の廃城令まで白石をおさめ続けました。現在は片倉家は仙台市青葉区の青葉神社で神職をしています。
片倉小十郎と伊達政宗の関係のまとめ
- 伊達政宗の見えなくなった片目を切り取ったのが片倉小十郎
- 畠山家と戦いでは正宗の身代わりになり命を救う
- 小田原攻めに遅参した正宗を、奇抜なアイディアで秀吉の怒りから救う
- 正宗は大坂夏の陣の出陣の途中、病床の片倉小十郎を見舞う
- 片倉小十郎の嫡男も正宗に仕えて勇猛ぶりをうたわれる