ルイ17世とはどんな人物?
ルイ17世(ルイシャルル)は、フランス国王ルイ16世と王妃マリーアントワネットとの間に、次男として1785年6月8日に誕生しました。国王の息子であり兄である第一王子のルイジョゼフが幼くして病死したのち、1791年9月に後継者として王太子(ドーファン)に任命されました。
若くして世を去ったルイ17世の生涯
ルイ17世は、フランスブルボン王朝を彩る華やかなヴェルサイユ宮殿で、待望の男児として生まれました。その後、家族や宮廷の人々からの寵愛を一身に受け愛されましたが、それは短い間のことでした。
フランス革命の混乱によって、ルイ17世は4歳という若さで幽閉生活を強いられることになり、果ては10歳で壮絶な死を迎えました。彼の死後、解剖を担当した医師は大人のように発達した脳の様子に驚嘆したと言います。
幼いながらにして国の行方を揺るがしかねない存在であったルイ17世は、フランス革命の混乱がもたらした、「正義」という名の狂気をまとった民衆が生んだ犠牲者でした。彼が送った壮絶な生涯とは、一体どのようなものだったのでしょうか。
「愛のキャベツ」と呼ばれ愛された幼少期
ルイ17世は、幼い時分から整った目鼻だちの美しい容姿を持つ子供でした。おまけに活発で愛嬌のある愛くるしい性格だったこともあって、宮廷内の周囲の人々からとても愛されていたようです。
母親のマリーアントワネットからは「愛のキャベツ」の愛称で寵愛される程、ルイ17世はとても愛情深く育てられていました。しかしながら、少しばかり虚言の癖があることに母マリーアントワネットは頭を悩ませていたようで、その内容は彼女が友人に宛てた手紙にも記されています。
フランス革命後は人生が一変
ルイ17世とその家族である国王一家は、1789年7月14日に勃発したフランス革命により、その身柄をパリのテュルリ宮殿へと移されることになります。この革命後、一家は国民衛兵の監視下のもとで半ば軟禁状態の生活を余儀なくされることとなります。
その後、一家は1791年にヴァレンヌ逃亡事件を起こします。この事件が民衆の怒りの引き金となり、同じ年の8月にはタンプル塔へと幽閉されることになるのです。
そのときの一家の生活は比較的穏やかなもので、ルイ17世は父や叔母のエリザベートから勉強を教わるなどしていました。
幽閉された身ではありますが、家族水入らずの時間は幼いルイシャルルにとって、生涯で唯一の心休まる時間だったことが察せられます。
しかし、父であるルイ16世の処刑後、この生活は一変することになります。
父ルイ16世の死後は虐待の日々
ルイ17世の父、ルイ16世が1793年1月21日に処刑されると、叔父にあたるルイ16世の弟のプロヴァンス伯爵(後にルイ18世となる)や王党派、亡命貴族たちは、王太子ルイシャルルを国王ルイ17世にすると宣言しました。この時から、一家への待遇は悪くなっていきます。
ある日ルイ17世は、高熱と腹痛を訴えます。母親のマリーアントワネットは息子の容態を心配し、医者による診察を要求しますが、その要求は幾度も拒まれてしまいます。それ以降、ルイシャルルは病気を患った状態で家族と引き離され、父ルイ16世がそれまで過ごしていた階下の部屋へと単身移されます。
その後、後見人としてシモンという男がルイ17世の元へと教育係として送られてきます。シモンはまともに読み書きもできないような男でしたが、教育やしつけと称しては、まだ幼かった彼を虐待していたと言います。
その内容とは、ルイ17世に革命派の制服を着せたり、王家や家族を汚い言葉で罵ったり、卑猥な言葉を教え込んだりするなどでした。長きにわたる激しい仕打ちによって、次第にルイ17世は洗脳されていくことになります。
虐待の内容はそれだけではありません。まだ幼い子供であったルイシャルルに無理やり飲酒させたり、日常的に暴力を加えていたりしたようです。これらの行為が幼い心にどれだけのトラウマを植え付けられたのかは計り知れません。この様子には、さすがの番兵たちも見るのを嫌がったという内容が記録に残されています。
この行き過ぎた虐待は誰にも止められないまま、激しさを増していきました。ルイ17世が売春婦から性病をうつされたとの報告が、近隣国のスパイによって他国の外相のもとへ届けられたことも記録に残っています。
また、ルイ17世の母マリーアントワネットや叔母エリザベートの失脚を狙う策略によって、更なる苛烈な虐待を強いられたルイ17世は、ついに洗脳状態に陥りました。自らの母と叔母に不利に働く嘘の証言を繰り返し、その内容が書かれた書類に強制的に署名させられてしまいます。
この署名が元となり、母であるマリーアントワネットと叔母のエリザベートはその後、不名誉な汚名を着せられたまま処刑されてしまいます。
その後、シモンは後見人を退きますが、ルイ17世に安寧が訪れることもありませんでした。そして、その頃に元々食堂であった薄暗く不衛生な部屋へと移され、軟禁されます。
部屋にはトイレも便器も置かれなかったため、排せつ物は床へと垂れ流すしかないような悲惨な待遇でした。誰もこの部屋へと立ち入ることは許されず、食事も粗末なものが1日2回鉄格子の間から中へ入れられるだけだったと言います。
次第に部屋の中は、汚物による悪臭が立ち込めるようになり、ねずみや害虫がはい回るような衛生状態になっていきました。そのような状況下でも、彼は看守によって来る日も来る日も言葉による虐待を受けました。
家族と離されてあらゆる虐待を受けたことにより、ルイ17世の精神は日々すり減っていきました。ノミやシラミにまみれた小さな体を子供用のベッドに横たえながら、彼は次第に衰弱していったのです。
ルイ17世の死因は結核?
その後、革命後の情勢は一変し、革命派が次々と処刑されていく最中のことです。旧貴族の出であり後の総裁であるバラスによって、シャルルは姉マリーテレーズとともにこの不衛生な環境から救い出されることとなりました。
バラスは、ローランという青年をルイ17世の後見人に充て、彼のお世話係を命じます。ローランらの手によって、不衛生を極めた部屋は綺麗に掃除され、汚れていた体も洗い清められました。
そして、ルイ17世の身体を蝕む病気の治癒のため、ドゥゾーという医師が呼ばれます。彼は、ルイ17世のやせ細った悲惨な姿に「これは最も残忍な仕打ちであり、なんたる犯罪だ!」と怒りに震え、国民公会へ意見を述べたと言います。
ドゥゾーの死後、今度はペルタンという新たな医師が呼ばれますが、この頃にはすでに、ルイシャルルの体はいつ死んでもおかしくない状態でした。
そして遂に1795年6月8日午後3時、ルイ17世は最期の時を迎えます。治療の甲斐もむなしく、ルイ17世ことルイ・シャルル・カペーはわずか10歳でその壮絶な生涯を終えました。飢えと孤独と闘いトラウマに苛まれ、病に倒れ苦しみ抜いた短い生涯でした。
彼の死因をめぐっては、毒殺ではないかとの噂も囁かれたようです。しかし、ルイ17世の姉であるマリーテレーズは、「彼をトラウマの淵へ陥れた人々の残忍な行為こそがその死因である」と語っています。
また、彼の最期を看取った医師のペルタンも、毒殺説をきっぱりと否定しています。
ペルタンらの手によるルイ17世の検死の結果、死因は結核であったと結論づけました。しかしながら、小さな体は他にもさまざまな腫瘍に侵されていたと記録が残っています。
その後、ペルタン医師はルイ17世の心臓をハンカチに包んで密かに持ち帰り、アルコールを塗ってしばらく自宅で保管していました。
そして、このことがのちに重大な結果をもたらすことになります。
ルイ17世の遺体は2004年にサン=ドニ大聖堂へ
ルイ17世の遺体は検死された後、共同墓地であるサン・マルグリット墓地へと埋葬されましたが、その約20年後の1814年に遺体の捜索が行われました。この時にルイ17世のものではないかと推測されていた遺体は、腐敗が進んで膨張していたこともあって、当初から別人のものではないかと囁かれていたようです。
時を経た2000年4月、医師ペルタンが密かに保存していたルイ17世の心臓のDNA鑑定が行われました。その結果、その心臓がルイ17世のもので間違いないことが明らかになりました。
その後2004年6月、父ルイ16世と母マリーアントワネットの眠るフランス王家の墓地があるサン=ドニ大聖堂へと、ルイ17世の心臓が埋葬されました。長きにわたって引き裂かれた家族が、200年以上の時を経て、ようやくひとつに戻った瞬間でした。
「ルイ17世」の生涯と死因のまとめ
- 「愛のキャベツ」と呼ばれ、寵愛を受けた幼少期
- フランス革命後のタンプル塔での虐待の日々
- 死因は結核だったが、ルイ17世の姉は「人々の残忍な行為」こそが死因だと断言した