フェルゼン伯爵とマリーアントワネット
フェルゼン伯爵とベルサイユのばらで有名な、マリーアントワネットの物語についてご紹介します。スウェーデンの名門貴族の伯爵とフランス国王王妃という立場ですが、二人は浮気や不倫の関係にあった、また、フェルゼン伯爵はスウェーデンのスパイだったなどの噂が取りざたされています。
フェルゼン伯爵とは?
フェルゼン伯爵の正式名はハンス・アクセル・フォン・フェルゼンといい、1755年9月4日生まれです。スウェーデンの名門貴族で軍人、政治家でもありました。役職を国王式武官とし、スウェーデン国王グスタフ3世に仕え、国王の死後は王位継承したグスタフ4世の外交顧問を任じられていました。
フェルゼン伯爵は、妹ソフィー・ハイパーに宛てた手紙の中で、「この人のものになりたいと願うただ1人の女性のものになれないのなら、わたしは誰のものになるつもりもない」と人妻であるマリーアントワネットへの愛について語り、生涯独身を貫きました。
フェルゼン伯爵とマリーアントワネットの出会い
フェルゼン伯爵とマリーアントワネットの出会いについてご紹介します。
さまざまな憶測がなされている二人の関係ですが、一体どのような出会いだったのでしょうか。
仮面舞踏会にて
フェルゼン伯爵とマリーアントワネットの出会いは、同い年である二人が19歳になる1774年1月の仮面舞踏会でのことでした。1770年5月16日に14歳で結婚していたマリーアントワネットは、ルイ16世フランス国王太子妃という立場ながら、フェルゼンと惹かれ合うようになります。
そのような中、ルイ15世フランス国王が1774年5月10日に病気のために亡くなると、ルイ16世が王位継承し、マリーアントワネットは王妃となりました。フェルゼン伯爵は、フランス民衆へ王妃の婚外恋愛話が広がることを避けたいという動機から、ルイ16世の王位継承直後にスウェーデンへ帰国します。その後1778年にフランスへ戻りますが、アメリカ独立戦争へと参加するため再びフランスを離れます。
フェルゼン伯爵はスウェーデンからのスパイだった?
フェルゼン伯爵は、フランス革命で民衆の憎悪の矛先となっているフランス国王ルイ16世一家を救出し、革命を阻止すべく、仕えていたスウェーデン国王グスタフ3世から命ぜられます。そのため、スウェーデン王国が友好関係を築いているフランス国王、ブルボン家が住むベルサイユ宮殿へと入城しました。
国王一家は窮地に立たされており、フェルゼン伯爵は国王一家に亡命を提案し実行させます。亡命先はマリーアントワネットが計画し、自らの実家があるオーストリアを予定していました。実行は1791年6月20日の午前1時過ぎで、一家は大型のベルサイユ馬車に乗り込み、その馬車の手綱をフェルゼン伯爵が操りました。しかし、午前6時頃に侍女たちは国王一家がいないことに気付き通報します。それが要因となり、民衆まで話が広がり、ベルサイユ宮殿には国王一家に対して怒りの念を持った民衆たちが押し掛けてきました。
亡命を実行している道中、国王はフェルゼン伯爵に、外国人に先導されることや、妻と仲の良い人はこれから先へは連れていけないと告げられ、ボンディという街で一家と愛する王妃に別れを告げます。しかし、一行は現在のベルギーやドイツとの国境近くに位置する、ヴァレンヌにある「ソース」という食料品店にて捕まることになります。
フェルゼン伯爵はスパイという立場からではなく、愛するマリーアントワネットの家族である、フランス国王一家の無事を願っての行動だったと考えられます。そして、二人の関係を知っていたルイ16世も、フェルゼン伯爵の一家に対する献身的な態度に厚い信頼を寄せていました。
フェルゼン伯爵とマリーアントワネットの本当の関係は?
フェルゼン伯爵とマリーアントワネットの本当の関係は、婚外恋愛となる愛人関係ではなくプラトニックラブを貫いていたとも言われています。その場合、心の支えや精神的な繋がりの方が強かったと伺えます。また、マリーアントワネットの夫であるフランス国王ルイ16世も、関係を知っていながら口出しをすることはなかったということです。
お互いがそれぞれの兄弟に宛てた手紙の中で、心から大切にしていたことを知ることができます。特に漫画ベルサイユのばらにも登場する、マリーアントワネットの夫で国王のルイ16世の妹、自身が仲の良かった義理の妹であるエリザベート・フィリッピーヌに宛てたマリーアントワネットの遺書の中に「私にも友達がありました。二度とお目に掛かれないと思い、その方たちのお気持ちを察すると、それが死に際して最も心残りなことです。」と書いており、これの「友達」がフェルゼン伯爵のことを意味するとささやかれています。
マリーアントワネットが裁判で死刑確定した後、フェルゼン伯爵に宛てた手紙と指輪も有名な実話です。手紙の内容は、「わたくしが王妃でなければ・・・ただの貴族出身者だったならば・・・。さまざまな美しい記憶が瞼の裏に浮かびます。わたくしにはもう時間がありません。ここで筆を置きます。さようなら、わたくしの心はすっかりあなたのものです。」というものでした。
手紙には指輪が同封されており、マリーアントワネットがフェルゼン伯爵のために作らせたもので、フェルゼン家の家紋と「Tutto a te mi guida(一切が私を御神がもとに導く)」とイタリア語で刻まれた言葉が入っていました。この短い最後の言葉に、全ての愛が込められており、フェルゼン伯爵は震えが止まらなくなったと伝えられます。マリーアントワネットの死後、フェルゼン伯爵は民衆を深く恨んで過ごしました。
フェルゼン伯爵の最後について
フェルゼン伯爵の最後は、群衆による暴動に巻き込まれたことでした。
フェルゼン伯爵は、スウェーデン国王グスタフ3世の死後、国王となったグスタフ4世に仕え、1799年に元帥という軍隊の中で最高の階級を与えられました。しかし、1809年にグスタフ4世の政治に怒りを持った国民が訴えかけ、フェルゼン伯爵が不参加の元、貴族や軍人を中心としたクーデターが起こり、グスタフ4世は幽閉されます。
その後の国王にカール13世が即位しますが、子どもが無く後継ぎがいないことから、アウグステンブルク家からカール・アウグストが王太子として迎え入れられました。しかし、同年の1810年5月28日に急死してしまいます。それが王位継承を目的とした暗殺だと噂され、その中心人物がフェルセン伯爵だと疑われるようになりました。しかし、カール13世は冷静さを欠くことなく、フェルセン伯爵にカール・アウグスト王太子の葬儀を執り行うように命じました。
同年6月20日、ストックホルム市内の広場で葬儀を行っている際に、フェルセン伯爵は群衆に襲われ死亡しました。奇しくも、この日はちょうど19年前に、フランス国王ルイ16世一家の亡命が失敗に終わったヴァレンヌ事件と同じ日でした。
結局、死後にフェルゼン伯爵の潔白が分かることになります。
フェルゼンとマリーアントワネット
- フェルセン伯爵の正式名は、ハンス・アクセル・フォン・フェルゼン。スウェーデン国王に仕える軍人であり政治家。
- フェルゼンとマリーアントワネットは下劣な愛人関係というよりは、心で繋がりを持った関係。
- フェルゼン伯爵の最後は、王太子殺害を疑った民衆の手にかかり死亡。