「泣いて馬謖を斬る」以外の三国志由来の故事成語
若手社員
こんな言葉も三国志のエピソードからきてるって知ってた?超有名な3つを紹介するよ。
三顧の礼
まだ三国時代に入る前の後漢末期、当時40代だった劉備は荊州という地を治める劉表の客分でした。そこで、眠れる龍とよばれる諸葛亮の存在を知ります。
劉備は諸葛亮を軍師として招くため、使者を送るのではなく自ら諸葛亮の住む庵に足を運びました。一度目も二度目も不在、三度目にやっと対面が叶い、諸葛亮は年下で無位無官の自分をわざわざ三度も訪ねてきてくれた誠意に感激して、劉備を主君とする決意をしたということです。
この有名なエピソードは「三顧の礼」とよばれ、「目上の者が礼儀を尽くして目下の者を迎え入れる」意味の故事成語となりました。
苦肉の策
三国志一の見せ場といっても過言ではない「赤壁の戦い」。その際、劉備と呉の孫権(そんけん)の連合軍が曹操(そうそう)率いる魏軍の大艦隊を打ち破るために用いたのが、「苦肉の策」です。
呉の武将である周瑜(しゅうゆ)と黄蓋(こうがい)が口論になり、周瑜は兵士たちの前で黄蓋を鞭打たせます。その後、黄蓋は魏軍に降伏。間者によって一部始終を知っていた曹操は喜んで黄蓋を迎え入れましたが、降伏は偽りでした。魏軍へ潜入した黄蓋は内部から艦隊に火をつけ、曹操軍を壊滅させることに成功したのです。
自分で自分を痛めつけるはずがない、という思い込みを利用した作戦です。このことから、「苦肉の策」は「敵を欺くために自分や身内を苦しませてまで行う作戦」を指す言葉になりました。現代では「苦しまぎれの作戦」という意味で使われることが多いですが、もともとはこちらが本当の意味となります。
破竹の勢い
蜀は滅亡、魏はクーデターに倒れ、三国で残ったのは呉国だけになりました。しかし、魏にとってかわった新王朝・晋の勢いはすさまじく、晋の司令官・杜預(とよ)によって呉の城は次々に奪われていきました。
快進撃を続けていた杜預の軍ですが、季節は夏に移行していました。周囲から「気温が上がると疫病が蔓延するかもしれない。いったん兵を引くべきだ」という意見が出ましたが、杜預は「今の我が軍には竹を割るときのような勢いがある。勢いづいている今だからこそ進軍すべきであり、引くわけにはいかない」と諸将を説得、呉の首都・建業へ進軍して勝利をおさめました。
竹は丈夫でなかなか割れませんが、刃物で最初の一節を割ってやれば、その後は簡単に最後まで割ることができます。こういった竹の性質を軍の勢いに例えた杜預の言葉が、「破竹の勢い」の語源となっています。
あらた君
「苦肉の策」「破竹の勢い」なんて、普段でも結構使う言葉だよね。三国志が由来だったなんて知らなかったなあ。
情熱系社員
三国志由来の故事成語は他にもたくさんあるわ。機会があったら調べてみてね。
「泣いて馬謖を斬る」とは?まとめ
「泣いて馬謖を斬る」という故事成語について解説しました。
周囲の意見や忠告を聞かず、勝手な行動を取って大きな失敗をすれば、どれだけ優秀でも馬謖のように処罰される場合があります。自分を過信せず、功を焦らず、柔軟な態度で仕事をしたいものです。
「泣いて馬謖を斬る」……心の片隅に刻んで、功を焦りそうになったとき、驕って周囲をないがしろにしてしまいそうなとき、思い出してみてくださいね。
課長さん
ここまで読んでくれてありがとう。
「泣いて馬謖を斬る」、できることなら使いたくない言葉だね。私自身も、上司や社長を泣かせないように、課のみんなと協力して仕事を進めていこうと思う。
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