松尾芭蕉とは?
松尾芭蕉といえば、日本の偉人でも多くの俳句を残した人物として知られています。彼が残した作品で最も有名なものが『おくのほそ道』と呼ばれる紀行文で、江戸から現在の岐阜県大垣までを東北地方と北陸地方経由で2400キロもの旅路を歩きながら、各地で俳句を残している内容になっています。
さて、芭蕉が歩いた2400キロの旅路ですが、実はその所要日数は140日です。1日換算で17キロほどですが、よく見てみると1日で40~50キロも進んでいる記述もあります。このため昔からあるのが「松尾芭蕉は実は忍者だった」という都市伝説です。今回は古くから存在する松尾芭蕉忍者説にスポットを当てていきます。
松尾芭蕉は忍者?都市伝説が生まれた理由
松尾芭蕉は俳人として名高い人物であるため、彼が忍者であるといわれても信じられないのではないでしょうか。そこでまず彼が果たして本当に忍者だったのかどうかを、彼の出身地や出自から見ていきます。
松尾芭蕉の出身は伊賀
1644年に、現在の三重県西部に当たる伊賀で松尾芭蕉は生まれました。今でも彼の出身地に当たる伊賀市の市役所には彼の銅像が立っています。
伊賀といえば古くから多くの忍者を輩出したことで有名です。芭蕉といえば忍者と関係ないイメージがあるように見えますが、彼の母方が戦国時代の忍者で織田信長に滅ぼされた百地三太夫(ももちさんだゆう)の子孫であるといわれています。このことから血筋の面では、忍者の血を引いている可能性があります。
不思議な移動ルートと速度
松尾芭蕉が『おくのほそ道』で辿った旅路を見ていくと、出発地は江戸で到着地は岐阜に近い大垣です。当時であれば東海道で名古屋を経由していけば近道なのに、なぜかわざわざ東北や北陸経由で旅をしています。
表向きは名所旧跡を巡る旅ではあるのですが、その割には日本三景で有名な松島を、1日程度で通り過ぎてしまうという不思議な巡り方です。加えて伊達政宗の子孫が治める仙台藩では、領内の港などを詳しく見て回ったのですから、名所旧跡巡りというには無理があります。
松尾芭蕉と服部半蔵は同一人物!?
松尾芭蕉の出身地である伊賀や三重県にゆかりのある人物といえば、やはり忍者として有名な服部半蔵がいます。徳川家康に仕え、諜報活動で多大な功績を上げて家康の天下取りに貢献した人物です。
今でも皇居の半蔵門や地下鉄半蔵門線に名を遺す彼ですが、芭蕉がこの服部半蔵と同一人物なのではないかという説があります。この説が唱えられている理由は、当時の交通事情からはとても考えられないほど短い所要日数で2000キロ以上移動したためです。
当時は治安維持や人質の逃亡を防ぐ理由から、全国各地に関所が配置されていました。そしてこの関所を通過するには通行手形が必要であったうえ、発行までかなりの時間がかかりました。たとえ幕府の役人であったとしても例外ではなかったほど、関所で時間を食う羽目になっていた時代です。
そんな時代にわずか5ヶ月程度で2000キロ以上を踏破したことは、関所の存在を合わせて考えても、よほどの立場でなければありえず、関所側があっさり通してくれなければ実現できません。
よって、半蔵が家康の信頼篤い人物だったことと、芭蕉が短い日数で踏破したことから2人が同一人物だったのではないかといわれています。
松尾芭蕉は密偵だったとの噂も
松尾芭蕉には、実はスパイだったのではないかという説も存在します。果たしてそれはどのような内容なのでしょうか。
お金のかかる旅の資金はどこから?
松尾芭蕉の時代も現代も旅をするには相当なお金が必要です。芭蕉自身も5ヶ月にわたって長距離の旅をしたため、途中の宿泊や食事のことを考えると、かなりの旅費がかかったと考えられます。
しかも旅に出る前の芭蕉は、俳句作りに専念しており、ほかに商売らしいことをやっていた形跡はありません。ここで出てくる疑問が、彼は一体どのようにして旅の資金を用意したのかということです。
弟子で『おくのほそ道』の随行人でもある河合曾良は、行く先々で弟子や知人などから寄付してもらい、それを路銀に充てたと記録しています。しかし長距離のルートを5ヶ月近く旅するための資金は、簡単に賄えるものではありません。だからこそ幕府からスパイとしての資金を受け取っていたのではないかという説があります。
紅花の技術を探る産業スパイだった?
松尾芭蕉が仮にスパイだとしたら、どのような任務に就いていたのでしょうか。先ほども見た仙台藩内の情勢をつぶさに調べたというのもたしかにあり得ることで、最近の研究で有力視されていることです。仙台藩祖伊達政宗は家康の時代に天下を狙っていたこともあり、彼の子孫である伊達家もまた有力大名でした。
ほかにも現在の山形県最上川で紅花の技術を調査するために活動していたともいわれています。芭蕉が現地の紅花問屋に10日にわたって滞在していたことが根拠ですが、松島での短い滞在に比べたらあり得ることです。
弟子の河合曾良にもある怪しい説
松尾芭蕉といえば河合曾良という弟子がいたことでも有名ですが、曾良にも怪しい説があります。実は曾良も忍者なのではないかという説です。
曾良は芭蕉が亡くなってから、幕府の命令で巡見使と呼ばれる調査官として旅することになり、その途中で亡くなっています。巡見使の役割は諸国の大名を調査したり監視したりする、今風にいえば公安警察のような役職です。幕府が曾良に巡見使を命じたということは、曾良が忍者かスパイのようなことをやっていた可能性を物語っています。
松尾芭蕉忍者説や様々な謎の解明に注目
松尾芭蕉は日本史上屈指の俳人で、『おくのほそ道』の作者ですが、出身が伊賀であることや前半生が謎に包まれていること、道中を信じられないほどの速度で踏破したことなどから忍者説が存在してきました。
果たして彼が本当に忍者だったのかどうかは、研究の進展を待つばかりです。彼にまつわる謎の解明には今後も注目していくべきと言えます。
松尾芭蕉の忍者説を解説のまとめ
- 多くの俳句を残した松尾芭蕉には忍者だったという説がある。彼の出身地が伊賀であることや移動速度が驚くほど速かったこと、服部半蔵と同一視されていることが理由に挙げられる。
- 松尾芭蕉は密偵だったのではないかという説もある。旅の資金に困らなかった点や紅花問屋に10日間滞在したこと、弟子の河合曾良が後年巡見使だったことが根拠に挙げられる。
- 松尾芭蕉が忍者だったかどうかは、今後の研究の進展でさらに明らかになるため、目が離せない。