徳川埋蔵金は見つかった?存在しない?隠された徳川財宝の都市伝説に迫る!

徳川埋蔵金は見つかった?存在しない?隠された徳川財宝の都市伝説に迫る!

徳川埋蔵金という言葉を一度は耳にしたことがあるでしょう。幕末に新政府に追われた幕府の役人が莫大な金額の財宝を隠匿したという都市伝説です。今回は徳川埋蔵金が本当に存在するのか?そもそも徳川埋蔵金とは?などの疑問を詳しく解説します。

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  1. 1徳川埋蔵金とは?徳川財宝はある?ない?
  2. 1.1徳川埋蔵金は現在の価値でどのくらい?
  3. 1.2徳川埋蔵金があるとされる根拠は?
  4. 2徳川埋蔵金の埋蔵場所は「赤城山」?
  5. 3徳川埋蔵金と「かごめかごめ」の謎
  6. 3.1徳川埋蔵金は「日光東照宮」にある?
  7. 4徳川埋蔵金を否定する説も

徳川埋蔵金とは?徳川財宝はある?ない?

徳川家康像

徳川埋蔵金とは?徳川財宝はある?ない?

徳川埋蔵金とは、幕末に徳川家が幕府再興の資金とするべく隠匿したといわれる莫大な額の徳川財宝を指します。現在でもその存在が謎となっていることから、大きな都市伝説の一つとして数えられています。

江戸時代末期、徳川幕府を滅亡の寸前まで追い詰めた新政府は薩摩・長州をはじめとした数藩の連合に過ぎず、その内実はひっ迫した財政難に悩まされていました。この時新政府があてにしたのが徳川の持つ莫大な資金です。しかし、いざ江戸城に乗り込むと、あると思われていた徳川財宝が、城内はおろかどこを探しても見当たりませんでした。衰えたといえども八百万石といわれる徳川家に資金がないということは考えられません。
この時が徳川財宝都市伝説の始まりです。

徳川財宝のルーツは関ケ原以前までさかのぼります。当時の天下人豊臣秀吉は無類の黄金好きと言われ、莫大な金銀財宝を採掘していました。その財宝は現在の価値に換算すると200兆円とも言われています。関ケ原の合戦に勝利した徳川家康は自陣の武将への恩賞としてこの豊臣財宝を手に入れて分け与えたという説もあり、この豊臣財宝がそのまま幕末の徳川財宝に繋がっているとも考えられています。

徳川家康の墓所である日光東照宮の壮麗さを見ても、豊臣財宝を徳川家康が手に入れたという説はまんざら絵空事ではないのかもしれません。

萌え袖ちゃん

萌え袖ちゃん

多くの人がこの都市伝説とも言えるような徳川埋蔵金の存在を信じて捜索を行ないました。有名なものは1990年頃にテレビ番組として特集された糸井重里氏の捜索です。大規模な発掘まで行いましたがついに徳川財宝発見には至りませんでした。また、最近では2016年と2017年に林修先生がやはりテレビ番組で再発掘を行っています。

徳川埋蔵金は現在の価値でどのくらい?

一万円札と招き猫

徳川埋蔵金は現在の価値でどのくらい?

徳川埋蔵金は現在の貨幣価値にすると、どれくらいの額になるのでしょうか。
江戸幕府末期の軍艦奉行勝海舟は、軍用金360万両の存在を自身の日記に記しています。この360万両が徳川財宝の額と想定するならば、現在の貨幣価値に換算するとおよそ3,800億円にのぼります。しかし、存在そのものが都市伝説として謎の多い徳川埋蔵金です。その額も500億円から200兆円まで諸説あります。

徳川埋蔵金があるとされる根拠は?

小栗忠順肖像

徳川埋蔵金があるとされる根拠は?

「徳川埋蔵金がある」と考える際にはどうしても幕末の一人の人物、小栗忠順(おぐり ただまさ)の存在が浮かび上がってきます。
小栗忠順は幕末には渡米経験もあり、考え方の違いから対立はしていましたが勝海舟と並び称される優秀な人材でした。幕府では今の財務大臣に当たる勘定奉行の職に就いた経験もあり、その後、陸軍奉行、海軍奉行と軍事の要職に就き、名実ともに新政府に対峙していた人物です。

討幕が成り、新政府の財務方と旧幕府の勘定方との引継ぎが行われましたが、この中では軍資金に関する項目が一切引き継がれなかったこと、また、徹底抗戦する榎本武揚らに反して小栗忠順は早々に地元の栃木の引き上げたことなどから、小栗忠順が徳川財宝を持ち帰ったのではないかと考えられるようになりました。

事実、旧幕府側の役人で唯一斬首刑となったのは小栗忠順ただ一人です。これは、徳川財宝の隠し場所を一切話さなかったが故と考えられます。

萌え袖ちゃん

萌え袖ちゃん

歴史のワンポイント:勝海舟は必ずしも幕府の維持にはこだわらず、新しい世の中を作ろうとしました。対して小栗忠順はあくまでも徳川幕府の存続に固執しました。この考え方の違いが優秀な二人の人物が対立する原因だったのですね。

徳川埋蔵金の埋蔵場所は「赤城山」?

赤城山大沼

徳川埋蔵金の埋蔵場所は「赤城山」?

徳川埋蔵金の埋蔵場所は「赤城山」ではないかと当初から目を付けられていました。やはり一番の根拠は、徳川財宝を持ち出したとされる小栗忠順の地元が赤城山である点です。

埋蔵されたと思われる赤城山の土地の持ち主である水野家は、明治中頃より三代にわたって発掘を続けていた時代があります。水野家が徳川財宝の発掘を始めたきっかけは、初代の水野智義氏が義父から「旧幕府の役人から発掘を請け負った」という話を聞いたことにあります。

徳川埋蔵金と「かごめかごめ」の謎

籠の灯篭

徳川埋蔵金と「かごめかごめ」の謎

「かごめかごめ」のわらべ歌には徳川埋蔵金の謎が秘められているという都市伝説も存在します。
歌詞は以下の通りです。

かごめかごめ
籠の中の鳥は
いついつ出やる
夜明けの晩に
鶴と亀が滑った
後ろの正面だあれ

現在のような童謡となったのは明治時代に入ってからですが、原型は「竹堂随筆(ちくどうずいしゅう)」という1820年頃に編纂された歌集です。
かごめかごめの歌詞に埋蔵場所のヒントを込めたといわれ、その埋蔵場所は日光東照宮を指し示しているというものです。

徳川埋蔵金は「日光東照宮」にある?

日光東照宮
フリー写真素材ぱくたそ

徳川埋蔵金は「日光東照宮」にある?

徳川埋蔵金は本当に「かごめかごめ」の歌詞が示すという日光東照宮に埋蔵されているのでしょうか。
かごめかごめの歌詞を振り返ってみましょう。

  • 【かごめかごめ】竹で編まれた籠の目の形です。三角形を上下に組み合わせた六芒星を意味します。
  • 【籠の中の鳥は いついつ出やる】六芒星の中心にある鳥居をさします。徳川家康が構築した寺社を六芒星で結ぶと中心には日光東照宮の鳥居があります。
  • 【夜明けの晩に 鶴と亀がすべった】日光東照宮には鶴と亀の像があり、夜明けの朝日が当たると影の先には家康公の御廟があります。
すなわち、かごめかごめの歌詞を解釈すると日光東照宮にある家康公の御廟に埋蔵されているのではないかという説が成り立つのです。

徳川埋蔵金を否定する説も

からっぽの宝箱

徳川埋蔵金を否定する説も

徳川埋蔵金を否定する説も存在しています。
徳川幕府も200年をこえ、末期には財政がかなりひっ迫していたといわれています。また、異国船来襲や尊王攘夷派との戦いのための軍備増強などで、たとえ徳川財宝が家康の頃から受け継がれていたとしても幕末期には底をついていたのではないかという考え方です。
また、水野家三代にわたる発掘の失敗も埋蔵金否定の根拠の一つとなっています。

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徳川埋蔵金のまとめ

  • 徳川埋蔵金とは豊臣財宝を手に入れた徳川家康から受け継がれていた財宝です。
  • 徳川埋蔵金の金額は現在の価値でおよそ3,800億円です。
  • 徳川埋蔵金は赤城山にあるという説が有力ですが、日光東照宮にあるなど諸説あります。

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