新舞踊とは
新舞踊とは、伝統的な日本の踊りである日本舞踊をもっと身近で親しめるものにした踊りのことを言います。
読み方は「新舞踊」と書いて「しんぶよう」です。
民謡、演歌、歌謡曲といった、一般的に知られている曲を使うことに特徴があります。民謡に合わせて踊ることから「民踊(みんよう)」と呼ばれることがあります。
民謡・演歌・歌謡曲に合わせ踊る未だ若い舞踊
新舞踊は日本舞踊を基礎に、自由な振り付けで踊る創作舞です。誰でも一度は耳にしたことのある民謡や演歌、歌謡曲に合わせて踊りますので、気軽に楽しめる踊りとして親しまれています。
日本舞踊の技術を受け継ぐだけでなく、「現代」を照射させながら再創造していく、新鮮なエネルギーを加えて進化させながら伝えていく、といった未知なる可能性を秘めた踊りなのです。
新舞踊の起源について
新舞踊の起源について知るためにも、まずは日本の踊りの歴史を見てみましょう。
【舞踊の始まりは神事】
舞踊は人類の歴史の始まりから存在しており、日本の踊りにも古代から神事や宮廷歌舞としての歴史があります。『古事記』のなかにある天照大神(あまてらすおおみかみ)の岩戸隠れの伝説では、若い美しい娘が神がかり状態で踊り狂うさまが描写されています。古代の舞踊は主に鎮魂儀礼を目的としており、「舞踊」という言葉が定着する以前は「神遊び」と呼ばれ、神様が乗り移って舞う、一種の巫女舞(みこまい)とされていました。
【第一転換期・一遍の踊り念仏】
時を経て、蒙古の来襲など不安定な世の中になると、社会不安を除くために踊りに没頭する、という一遍(1239~89)の「踊り念仏」が人気となります。「一切を捨てる」と主張した踊り念仏は非常にパワーのある踊りで、各地の民族芸能にも大いに刺激を与えました。もともとの鎮魂儀礼を目的とした踊りに華美を競う要素が加わり、盛況を極めるものへと変化していったのです(盆踊りがその一例)。
【第二転換期・出雲阿国の登場】
戦後の争乱も終結し、平和の到来とともに現れたのが出雲阿国(いずものおくに)です。男装の麗人である阿国の踊り(かぶき踊りと呼ばれる)は、京都の興行で大成功を収めます。これが歌舞伎の原点です。
阿国の話題は、当時にぎわっていた島原遊郭にも伝わり、遊女のスターを集めた遊女歌舞伎はまたたく間に芸能の主流にのし上がっていきました。しかし、遊郭の中でしか見られなかったため、遊女の代わりに美少年を美しく着飾って女装させた若衆歌舞伎が登場します。若衆歌舞伎も後に卑わい的要素が強いとして禁止されますが、入れ替わるように野郎歌舞伎が始まり、より芸術面に力を入れた形態へと発展していきました。
【第三転換期・坪内逍遥の新舞踊運動】
明治に入ると、文明開化に伴って舞踊もより高尚なものになっていきました。同時に新しい波もやって来ます。それが坪内逍遥(つぼうちしょうよう:小説家、劇作家)の起こした新舞踊運動です。舞踊家の「振り付けをし、演じる」というスタイルが確立しました。
【第四転換期・藤蔭静枝の新舞踊】
大正時代になるとヨーロッパ芸術に刺激を受けた芸術活動が盛んになります。その影響は日本舞踊にも到来し、藤蔭静枝(ふじかげしずえ:パリ公演を行った芸者)の新舞踊は時代の新しい気風を反映させた運動として、歌舞伎舞踊から脱却した日本舞踊の第一歩と考えることができます。
【現代】
現代では、民謡や演歌、歌謡曲、小唄(こうた:三味線音楽)、端唄(はうた:江戸庶民が愛唱したもの)などに振り付けをして簡便に踊れるものが誕生しています。同じ「新舞踊」という名称ですが、より新しいものへの挑戦として発展し続けています。
このように、もともとあった踊りを別なものにするのではなく、新しいものを取り入れながら発展させていく、というところに日本の踊りの歴史の深さが感じられます。
新舞踊の教室
新舞踊の教室は、実にさまざまです。流儀も違えば特色も違いますので、事前によく調べることが必要です。新舞踊教室や民踊教室、と掲げていることが多いです。最近では各地の文化センターにも舞踊教室が設けられていますので、見学や体験をしてみるのもお勧めです。着付けやマナーを学ぶだけでなく、自分磨きとリフレッシュを兼ねた大人の趣味のひとつとして始めて見るのも良いですね。
萌え袖ちゃん
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新舞踊
- 新舞踊(しんぶよう)とは、日本舞踊を身近で親しみのあるものにした踊りのことを言います。
- 民謡や演歌、歌謡曲などに合わせて踊るという特徴があります。
- 新舞踊は、技術の伝承だけでなく、常に新しいものを創造していくという精神面での伝統も含まれている踊りです。
新舞踊とは?