丙午(ひのえうま)の年は出生率が低い?
丙午(ひのえうま)の年にあたる1906年(明治39年)と1966年(昭和41年)は出生率減少を招くなどして、これまでの日本に影響を及ぼした背景には、丙午(ひのえうま)の迷信が関係しています。
1906年(明治39年)には前年より約4%の出生率が減少し、1966年(昭和41年)の出生率は前年に比べて25%減少しました。
実際、厚生労働省による出生率の資料によると、第1次ベビーブーム(1947(昭和22)年から1949(昭和24)年)と第2次ベビーブーム(1971(昭和46)年から1974(昭和49)年)に挟まれた1996年の丙午は、その年だけ大きく出生率を下げています。これは1989(平成元)年にさらに下回る出生率が出るまでの間、最低を記録していました。
丙午(ひのえうま)とは?
丙午(ひのえうま)とは六十干支(ろくじっかんし)と呼ばれる60を周期とする数詞の1つで、古代中国の思想から、人は生まれた年によって決められた運気を持って生きていくと考えられています。六十干支は十干(じっかん)と十二支を合わせたもので、年・月・日、時間や角度、方位などさまざまな事柄の順番を表すことに用いられます。
年では近代では1906年(明治39年)と1966年(昭和41年)、月では西暦年の下1桁が2か7(十干が壬か丁)の旧暦5月または新暦6月が丙午(ひのえうま)にあたります。
また、日では2つの考え方があり、1つは、選日という一般的なカレンダーにも記載のある六曜(先勝・友引・先負・仏滅・大安・赤口)などを含む考えから、天一神という方角神が癸巳(30番目)から戊申(45番目)までの16日間、天へ帰られる期間となり、丙午(ひのえうま)はその14日目にあたるというものです。
もう1つは、四柱推命による考えです。丙午(ひのえうま)が日にあたると十二運の中で最強の運である「帝旺」になります。この日生まれの男女はとても強い性格を持ち、男性は亭主関白気質で女性はかかあ天下気質となり、結婚生活に支障をきたしやすいといわれています。十二運とは、十干や十二支を用いて運の強度を見る12の要素(長生、沐浴、冠帯、臨官(建禄)、帝旺、衰、病、死、墓、絶、胎、養)からなります。
十干と十二支とは
十干と十二支について解説します。難しい漢字が並びますが、全て音読みと訓読みができる漢字です。
【十干(天干)】
- 甲(こう・きのえ)
- 乙(おつ・きのと)
- 丙(へい・ひのえ)
- 丁(てい・ひのと)
- 戊(ぼ・つちのえ)
- 己(き・つちのと)
- 庚(こう・かのえ)
- 辛(しん・かのと)
- 壬(じん・みずのえ)
- 癸(き・みずのと)
【十二支】
- 子(し・ね)
- 丑(ちゅう・うし)
- 寅(いん・とら)
- 卯(ぼう・う)
- 辰(しん・たつ)
- 巳(し・み)
- 午(ご・うま)
- 未(び・ひつじ)
- 申(しん・さる)
- 酉(ゆう・とり)
- 戌(じゅつ・いぬ)
- 亥(がい・い)
これら十干と十二支を合わせた60を周期とする数詞を、六十干支と呼びます。
丙午(ひのえうま)の持つ運気
丙午(ひのえうま)の持つ運気は、五行説では十干の火の要素、十二支も同じく火の要素にあたります。
五行説には、十干と十二支で出た要素を合わせて運気を読み解く方法があり、相生(そうせい)・相剋(そうこく)・比和(ひわ)・相侮(そうぶ)・相乗(そうじょう)の5つに分けて表すことができ、丙午(ひのえうま)は比和にあたります。
比和は同じ気が重なると強く働きます。良い気の場合にはその勢いに乗って、真っ直ぐに突き進み、必ずや勝利をつかみ取るような流れが起きます。また、悪い気の場合にも運気に拍車がかかり、とことん落ち込んでしまう運気です。
また、火の属性から見ると、好奇心旺盛でリーダーシップが上手に取れます。明るいキャラクターでグループの中心的存在です。ただし、自分が話の中心に居ないと感じると、周囲の人に対して良くない態度を取ることがありますので、振る舞いには注意することが必要です。
丙午(ひのえうま)の年の出生率が低い理由とは?
丙午(ひのえうま)の年に出生率が低い理由を解説します。
この丙午(ひのえうま)の年には、江戸時代初期にあった女性が起こした出来事が発端となり、近代まで迷信が言い伝えられています。
丙午(ひのえうま)生まれの女性の迷信
丙午(ひのえうま)生まれの女性の迷信として、八百屋お七と呼ばれる当時の年齢で18歳の女性の話があります。時代は江戸初期、江戸の本郷という町でのお話です。八百屋の娘として生まれたお七が、恋人と会いたい一心で放火事件を起こし、その後火刑に処されました。その八百屋お七が生まれたのは寛文6年(1666年)で、丙午(ひのえうま)年の生まれだったことが、迷信の始まりです。
現代まで「丙午(ひのえうま)生まれの女性は気が荒く、夫の命を縮める」と言い伝えられてきました。
この年に生まれた女性の年齢が18歳となり、結婚適齢期とされる1924年(大正13年)には縁談が破談となった話や、迷信否定説が談話として話されるようになりました。また、この迷信は時代が昭和後期になっても根強く残っており、法務省山形地方法務局によると、この年に子どもを出産するかどうかでもめた夫婦が離婚調停に至ったこと、人から嫌がらせをされたなどの訴えから、1965年(昭和40年)11月に同法務局が主催となった「ひのえうま追放運動」が発表され、同月21日には市内パレードが行われました。
丙午(ひのえうま)の迷信は、行政をあげて根拠がないことを発表するほどでした。
次の丙午(ひのえうま)はいつ?
次の丙午(ひのえうま)がいつかというと、2026年(令和8年)です。
歴史や文化などでできた風習は素晴らしいものがありますが、あくまでも迷信です。また、これまでの丙午(ひのえうま)年では出生率が減少していますが、もちろん丙午(ひのえうま)年に生まれた人たちはいます。その迷信に囚われない生き方をしている親の元に生まれ、自分で決めたことに信念を持ち貫いていける力があること、それが丙午(ひのえうま)年生まれの特徴でもあります。
丙午(ひのえうま)の意味と丙午生まれの女性の迷信のまとめ
- 丙午の迷信とは、江戸初期に存在した八百屋お七という女性がルーツ。
- 丙午の迷信は、昭和後期の丙午の年には行政を動かすほどの影響力を持った。
- 十干や十二支には難しい漢字があるが、どれも音読みと訓読みができる。